見逃した星たち

 

 

 

 

 

今年のオリオン座流星群のピークが昨日の夜中2時頃だったらしい。今朝のニュースで知ったんだけど。

 

もちろん寝てたし、もっと言うと夢をみてた。流星の代わりになるような吉夢ならよかったのに、残念ながら好きな人を眺めるだけのつまらない夢だった。

 

 

 

話が飛んだ。

 

好きな人を眺める夢がつまらない理由は簡単で、それは彼と発展する確率は低くゼロに近いから、とか、そういうのはどうでもよくて。

 

 

 

昨日の夜のオリオン座流星群は観測期間のなかでも当たり日で、月の光とか天候の条件に左右されながら巡ってくる、特別に綺麗に見える夜だったのに。

 

 

惜しいことをしたなあとおもった。月曜日は1週間でいちばん憂鬱だけど、授業はとっても楽だから。余計に。

 

 

 

自分が見逃してしまった景色を想って朝から気分が沈んだ、インスタのストーリーに苦手な先輩が流星群うんたらかんたら載せていたのも手伝って、もっと憂鬱になった。まだ19才の癖によくアルコールを摂取してると聞いたことがあった。きっと苦手じゃなく嫌いなんだと思って、こっそり認識を変えた。

 

けど、載せられていた写真にも当たり前の顔をして写り込んでいた飲酒の形跡をここまで嫌うのはわたしが、大学生にも19才にもなったことがないからだって思う。なったことがないものを、わかる方が変だよ。

 

 

昨日の夜にこの人が見てきた景色をわたしは知らない。

それがどれだけ勿体ないことなのか、それとも大したことないものなのか、そもそも先輩は熱心に空を睨んでいたのか、目的は友だちとお酒を飲むことだったんじゃないのか、それも全部、なにもかも知らない。

 

 

けど、少しでいいから知りたいと思う。

 

 

 

知らないことを知る、それがどれだけ意味を持っているのかは人それぞれの尺度・価値観だから1人ひとり違うけど、少なくともわたしの中には大きな存在として小さな頃からあって。

 

好意を寄せている人なら、事なら。もっと大きく作用して、引き寄せられて、手に負えなくなって。

 

 

 

あの子が好きな本を読みたいし、あの人が好きな歌を聴きたい。好きな人の好きなものを知りたい。

だけど経験上、そういうことをすると距離を取られるし、線を引かれる。ちゃんとわかってる。

 

好きなものが大切であるのは当たり前で、好きなものを大切にする方法はいくつもある。共有をする・しない、は多分わかりやすいけど、その共有の範囲まで考えると答えがぜんぜん出てこない。反応も予測できない。

 

 

こっそり教えてくれたと思い込んでいた秘密が本当は想像よりもずっと多くの人に回っていたと知ったとき、わたしだけじゃなかったのかとそんな風にそっと傷ついて、誰にも言えないで引きずったりして。

 

教えてくれた好きなものを好きになった、よろこんでくれると思って打ち明けると突然手のひらを返されて、わたしの方が前から好きだったのに、と、そんな呪いをかけられる。失敗してしまったって後悔するけど、当たり前に追いつけないもので。

 

 

そんな小さな小さな痛みを、重ねてきた。何回も何十回も、小さなかさぶたを作り変えてきた。

 

 

よくあることかもしれない、

 

それなのに道を避けることがどうしても出来ない。生きるのが下手だって自分でも思う。もっとうまく、いまより傷つかない道も頭のなかでは描けるのになあ。

 

 

敢えて、とか、そんな勇気ないのに。それでも、知りたいことには真っ直ぐ向かいたいと思うように出来てしまってた。

 

 

知覚することが生きがいなんじゃないかと思う。

 

自分のことを振り返って、客観視して、そうやってやっぱり、知ることに貪欲なんだと気づいた。

 

綺麗なものの名前を知っていたい、1日しか綻ばない花も、夏の大三角形がどの星で作られているのかも、真っ白な建物ばかりの外国の街並みも、透き通った海の青さも、留めておきたいと思う。

 

それだけじゃなくて。

目の前の人が何を考えているのか知りたい、その理由まで聞きたい、寄り添うことをしたい。

 

 

知って嫌われることがあっても、知って嫌うことはないのに。ほんと難しく出来てるよなあ。全部好きでいる自信がある、不恰好でいいのに、それでも好きなのに、伝わらないことの方が多いのが死ぬほどもどかしい。

 

 

 

預けられたい、んだ。わたしは、

 

 

 

けど、これ、たぶん気づいてる人いるだろうけど、ぜんぶ承認欲求の話。わたしの。

 

 

 

 

 

 

もしも昨日の夜起きてたら、星が流れる0.何秒に、わたし何か願えてたかなあ。