2人越しの街、東京のこと

 

 

 

 

晴天の迷いクジラ"を読んだ。

 

 

 

いつだって、窪美澄さんの文章は帰り道に見える明かりの灯らない自室に似た絶望で、その部屋に掛かるカーテンの隙間から入り込む朝陽の様な、そんな希望だった。

 

 

多分この本はきっと、死をみつめた人がもう1度現実と向き合う姿に感動する、そういう本だけど、わたしは違うところで目が離せなくなって、ページをめくった。

 

わたしは由人と野乃花越しに、東京をみた。

 

 

 

 

ソラナックスルボックス

 

第1章のタイトルは薬の名前だった。由人が自分を騙すために飲んでいた、抗うつ剤の名前。

 

家族や土地、空気、それら環境に喉を塞がれながら生きてきた高校生の由人は、父親に背中を押されて東京に流れ着いた。

 

"東京に行けばなにか見つかる"

 

父親はそう呟いて自由をあげた。由人を自由にしてやりたいと、足枷を外すことは救いだった。救いだと信じていた。

 

由人も、父親も。 わたしも。

 

 

 

「表現型の可塑性」

 

第2章、無抵抗のまま組み込まれた身分階層は、野乃花を小さな頃からずっと縛っていた。劣等感は他人から刷り込まれて、いつまでも残り続けるひとつだ。

 

親のために従うこと、子どものために促すこと。なにかに対して疑問を抱くという箇所が欠落して心が幼いままお母さんになった野乃花の居場所はどこにもなかった。

 

生物が、与えられた環境に適応すること、"表現型の可塑性"と呼ぶ。生まれ育った生臭いあの街を出て、野乃花の幸せは叶うはずだった。でも彼女には「適応する」ということができなかったのだ。

 

夜明け、逃げ出した先は東京だった。

 

 

 

東京、そこには何があるのだろう。

たった2,188 km²の世界に、何を求めているのだろう。

 

 

 

この本を最後まで読んだって、東京の唯一なんてみつからなかったし、由人が東京に何かを見つけたのかどうかも分からなかった。野乃花が東京で、救われたのかどうかさえ。

 

だけど東京は、頼りない人たちを世界に漂わせてくれる場所なんじゃないかと思った。

 

東京は水槽だ、海なんかじゃない。同じ温度で同じ色をした、変化のない場所だ。2人は此処で息をして、どこかに身を縛ることなく漂いながら生きてきた。

 

東京に行って変わる人を信じられないのは、その人に「自分」がないからだ。

 

 

「自分」を殺さないために東京に行く。

派手な見た目のくせに中身がすかすかの、安いソフトクリームみたいな街に行く。

その街の不器用な優しさに、「自分」を預けるために行く。

 

 

 

 

そんな場所ならいいな、と、思った。