よい朝を、いとしいひと
という曲名がどうしようもないほど好き。
"よい朝を"のなかには、"いとしいひと"に対するあらゆる感情が詰まっているように感じるから。だから間に挟まる読点を、切実さだとわたしは受け取りたい。どうかあなたがよい朝を迎えますように、という、切実な祈りだと信じたい。
居なくなったあなたを想う歌。
そんな風に説明すれば途端に平たくなるこの歌は、新しい朝を歌う。あなたが迎えるであろう朝は、だれも体験したことがない真っ白な朝。その純白が純白であるような、よい朝を。いとしいあなたに訪れるようにと歌う。
どうして夜じゃ駄目なんだろう、よい夜を、だって、よい夢を、だって、変わらないなんて思うのは横暴かもしれないけど、でも願い事は夜にするのが定説じゃない?
そんな不思議を感じながら聴き続けたこの歌を、この朝を、どうしても知りたいと思ってしまった。
歌詞をなぞりながら何度も聴いた、この詞を書いたあの人の気持ちに重ねながら聴いた。人と距離を測るのが苦手、恥ずかしそうにインタビューで話してくれたあの人なりの、下手で歪んだ純粋な言葉。
“ ひとりには馴れるけど
孤独では生きていけないから
よい朝を、いとしいひと ”
中盤に歌われるこのフレーズが、わたしに与えてくれた感情。それがきっと答えのひとつ。
ひとりに馴れてしまうほど、なにかがいなくなって時間が過ぎてしまった夜に。ひとりと孤独が等しく結ばれるものではないと知る。
わたしのなかに孤独の定義はひとつだけあって、それは思いだすひとがいるかどうかなのだけど、それは側に誰かがいなくても考えている相手がいるなら、孤独ではないということ。
想起する、という行為は孤独を成り立たせないもの。想起する対象の存在は孤独の反対側にあって、2つはきっと交わらないまま平行して存在するもので。
だからわたしは、誰かを思い出せなくなったときにはじめて孤独を知るんだと思う。
思い出すことは、言い換えると忘れないこと。
忘れないように何度も思い出すし、刻み込む。それだけ必要に感じるものを未練や後悔で纏めてしまうのは勿体ない気がする。
大切な誰かを、なにかを、時間を、感触を、空気を、色を、忘れないように想起する時間は想像よりもずっと豊かだと思う。
涙が出るような激情じゃなくても、目が離せない絶景じゃなくても、息ができないくらい圧倒的な空気じゃなくてもいい。他人には測れない、自分のなかに残る大切を思い出せることは幸せだから。
朝を願うのは朝を迎えて欲しいから。わたしがいなくても変わらずに、朝を迎えて欲しいから。その1日のはじまりに、悲しい心でいて欲しくないから。
誰かの幸せも自分の幸せだとかそんなことが言いたいわけじゃないんだけど。そんな欲張りで狡いことが言いたいわけじゃないんだけど。
でもやっぱり、好きな人が幸せだと幸せなんだよな。
だからそんな心のままで。よい朝を、いとしいひと。